とりあえず作ってみた(仮)

ユカの冒険というフリゲRPGを製作中です。RPGなのにキーアイテムを集めて扉を開くという、マリオの3Dゲームみたいなシステムです。あと敵が逐一変な挙動をする。@matsmomushiで表現規制関係のツイッターもやってます。変な音楽集も。

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性表現のあるサイトを作ろうと思う人へ

性表現のあるサイト、例えば成人向け同人サイトやアダルトサイトなどを作ろうと思っているけど、法的なことが分からず不安という人のために、これさえ気を配れば良いということをまとめてみました。

・無料サイトで気を付けなくてはいけないのは、この二つだけです。

1.性器の修正をしっかりする。
実写やイラストにおいて性器の修正がなされていない場合、刑法175条のわいせつ図画頒布等の罪に該当します。修正が必要なのは、原則ペニスとワギナで、何かが挿入されている場合には肛門の修正も必要になります。修正の程度には明確な基準はないので、実写の場合はアダルトサイトや市販のアダルトビデオを、イラストの場合は商業誌やコミックマーケットの基準を参考にすると良いでしょう。

なお現在となっては漫画の台詞や小説における性器名の伏せ字は、法的には不用です。

2.実在する18歳未満の者をモデルにしない
実在する18歳未満を被写体とした写真や動画は、児童ポルノに該当します。法解釈上、児童は実在の者に限るとされているので、架空のキャラクターを題材にした漫画やイラストは含まれません。架空のキャラクターの年齢に関する規制は全て業界の自主規制によるものであるため、年齢や学校種などを表記することも、法的な問題はありません。(業界の自主規制を見て法的な問題があると勘違いしてしまう人も多いため、フリー作品でもこうした規制が見られることはあります。)

ただし、実在する18歳未満の人物を描いた場合、漫画やイラストであっても児童ポルノに該当する可能性があります。

・次に18禁については、地方の青少年条例の規定であり、紙の本やCD、DVDなど有体物を対象にしたものであるため、ネットの作品が刑罰の対象となることはありません。したがって、この作品は18禁なのか否かと細かく悩む必用まではなく、年齢制限の規準は自己の良心に従って判断すればOKです。

・有料サイトの場合は、映像送信型特殊風俗営業に該当するため、届出が必要となります。これに該当したサイトは、18歳未満に利用させることが法的にも禁じられますが、サイトの入り口で年齢確認を行う仕組みにするという方法で対処がなされています。映像送信型特殊風俗営業に該当するのは、映像を対価として顧客からお金を受けとるサイトであり、アフィリエイト収入の場合は含まれません。(アダルトサイトのバナーを設置して広告収入を得ている場合も同様に含みません)。また、委託販売に関しても、有料販売を行う委託先が届出を行っているため不要です。

※追記:委託なしの有料サイトであっても、実写ではない作品については届け出不要との情報も見つかったのですが、情報が分かれている上、確定的なソースが見つからないため、開業される場合は念のため主務官庁(警視庁)に確認お願いします。

以上です。
性表現の規制に関する情報は、法規制と業界規制、マナーがごっちゃになってることも多いので、まとめてみました。
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テーマ:表現規制問題 - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/09/28(月) 01:03:35|
  2. 表現規制問題
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性表現批判の問題点をジェンダー的な観点からまとめてみた

自分が漫画などフィクションにおける性表現の規制に反対するようになったのは、自分が小学校6年の時に起こった奈良市小1女児殺害事件の報道を見て、小児性愛それ自体を犯罪の原因であるという風に主張する報道に疑問を感じたのが最初というのは、以前の記事に書きました。

今回は、性表現の規制はジェンダー平等には繋がらないという話をしたいと思います。

確かに、サッカー漫画を読んでサッカー選手に憧れる人がいるように、性表現は人の行動に影響を与えないかといわれると、否定はできないと思います。
しかし一方で、性的な欲求というのは人間には先天的に存在しているものです。したがって、性表現を規制した場合に上記のような問題が緩和されたとしても、別の問題が生じる可能性もあるのです。

フェミニストという言葉がでてきますが、フェミニストの中でも性表現の規制に反対するグループと賛成するグループの双方が存在すること、には留意下さい。また、本記事は性表現をそれがそぐわない場面においてゾーニングすることを否定するものではありません。



1.重要なのは現実の恋愛・セックス至上主義からの解放

2.現実の恋愛や性行為は他者への尊重だという人へ

3.フィクションの内容が問題という人へ

4.最後に



1.重要なのは「現実の恋愛・セックス中心主義」からの解放

まず、性表現の規制の主張(もしくは規制の主張とまではいかなくとも、萌えや性表現に対する批判)がなされる場合には、それらの表現の危険な側面ばかりが主張され、現実の恋愛や性行為の危険性についてはまず語られることはありません。フェミニズムやジェンダー学は日頃から現実の異性愛の危険性について散々指摘しているにも関わらず、フィクションの話になると完全にそれが無視されるのです。

性のあり方を、

1.現実の恋愛や性行為に比重を置くライフスタイル
2.フィクションの萌えや性表現に比重を置くライフスタイル

と分けた場合に、本来であれば、1と2に共通する問題、1に顕著な問題、2に顕著な問題、の3つが語られるべきはずです。しかしフィクションよりも現実の恋愛や性行為に比重を置くことは世間で「当然のこと」とされているため、1に顕著な問題については語られることは少ないのです。また、仮に語られた場合であっても、それは現実の恋愛や性行為を重視する人々全体の問題とはみなされないのです。


では、現実の恋愛や性行為の危険性というのは何でしょうか?
性表現などが存在せず、現実の恋愛でしか性愛を得ることができない世界を考えてみましょう。

まずはロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づく過酷な性愛獲得競争です。性的な満足を獲得する手段が現実の恋愛やそれを経た性行為しか無いとすると、恋愛や性行為の相手としての異性を求める動きは今よりも強くなるでしょう。そうなれば、常に異性を意識した行動(異性に好まれるとされる行動)をする人々が多くなると考えられます。その行動の多くは、異性が自分の性に求める行動、つまりは女らしさ、男らしさなのです。
加えて、現実の恋愛や性行為がマストになると、パートナーのいない人々は、現実で関わりのある異性、多くはビジネスの同僚や後輩を、恋愛や性行為の対象と見ることになります。異性を単に職場仲間や友達と見ることが難しくなるのです。そのような状況では、日常生活において強引なアプローチなどを受ける機会も多くなるはずです。
加えて、アンペイド・ワークやDV、デートDV、ストーカーなど現実の恋愛にはフェミニストの人々が指摘していた数多くの問題があります。現実の性行為にも、相手に嫌われたくないが故に性行為をしてしまったり、合意が不十分であったり、避妊の問題など、現実の行為であるが故の危険も沢山存在するのです。

にもかかわらず、現実の恋愛や性行為を本質的に無害なものとした上で、フィクションの害悪ばかりが問題にされるのです。フィクションの影響と主張されることの多くも、全ては現実の恋愛や性行為の中において起こっていることなのに。

では、この背景には何があるかというと「現実の恋愛・セックス中心主義」です。これは現実の異性との恋愛を経た性行為こそが最終目標であり、ポルノだとか自慰だとかはその代替に過ぎないという考えです。本当にこれは正しいのでしょうか?
この世界の大半の人は、性行為の回数よりも自慰の回数の方が多いはずです。
現実の性行為で楽しもうとするからこそ、危険な性行為が行われるのではないでしょうか?
異性をむやみに性の対象として見ないで欲しいと言いつつ、性の対象として見てよい異性が現実の自分に関わりのある実在する人物に限定するのは、本当に正しいのでしょうか?
ホモソーシャルを強化しているのは、むしろ現実の恋愛や性行為に重きを置く人々なのではないでしょうか?

ジェンダーに関心のある人々の「一部」が、殊更オタクの人を責めることがありますが、オタクの人々は(少なくともイメージとしては)現実の異性にあまり積極的でないと言われています。自分の経験としても、高校の修学旅行や合宿の夜に男子だけになった際に、現実の異性を性の対象とするような猥談をしていたのは、オタク的でない生徒の方でした。

もちろん、私はオタクの人々が非オタクの人々よりも優れていると言うつもりはありませんし、フィクションでの恋愛や性の充足が現実の恋愛や性行為より優れていると言うつもりもありません。しかし、私が言いたいのは、現実の恋愛や性行為に比重を置くことは、単に世間で当然とされているだけで、フィクションに比重を置くことよりも安全というわけではないということです。

また、オタク批判としてよく取り上げられるネットのミソジニーに関して、女性に恋愛対象として見られないことを理由にミソジニー発言を頻繁にする男性の中には、現実の恋愛・セックス至上主義を内面化している人々が多いと感じます。そういう人々には、現実の恋愛やセックスが必須でないこと、人間の価値を決めるものではないことを伝えていく必要があると私は考えています。一部の人々の「フィクションの異性像は他者を尊重していない。現実の性行為こそが異性の尊重だ。」「童貞だから異性嫌悪発言を繰り返すんだ。」という姿勢は、それこそホモソーシャルにおける現実の恋愛・セックス至上主義や異性獲得競争への加担に他ならないのではないでしょうか?


2.現実の恋愛や性行為は他者への尊重だという人へ

現実の恋愛やセックスは、フィクションの萌えや性表現とは違い、他者への尊重の証であるという人へ。本当にそうでしょうか? 私は現実の恋愛や性行為も、フィクションも、価値としては同じだと思います。
もし恋愛やセックスが愛や尊重だというのであれば、どうして性別により相手を選別するのでしょうか? あなたは性別により尊重の仕方を分けるのですか?
もし恋愛が愛や尊重だというなら、どうして好きな人に別の好きな人が出来たら怒るのでしょうか? その人が本当に好きな人と結ばれて、幸せになることを望まないのでしょうか?
現実での異性との関わりは、恋愛や性行為だけではありません。同性と可能な限り同じような関係を築くこともできるはずです。それだって立派な尊重です。
それでも敢えてロマンティック・セクシャルな関係を選ぶのは、生理的な欲求があるからでしょう。でも、それを奪われる(恋愛や性に基づく関係を禁止される)のは嫌なはずです。

私は性行為はもちろん、恋愛も、単なるフェティシズムの一種に過ぎず、人間関係や他者の尊重とは全く次元を異にするものだと考えています。それを認めなければ、同性にも異性にも恋愛感情を持たない無性愛の人々は人を愛せない人間ということになります。私はその性行為や恋愛というフェティシズムの部分をフィクションの理想的な異性キャラクターで充足し、現実の人間関係と分離してしまうことは、他者を尊重しないことを意味しないと考えます。

3.フィクションの内容が問題という人へ


次に、フィクションの性表現自体は問題無い、その内容(サディズムや年少者との性行為)が問題なんだという人へ。私はフィクションの内容を矯正することは、原則として無意味だと考えています。

まず、性的な好み自体を変える方法は不明です。性的指向(性の対象が異性であるか同性であるか)と違い、性的嗜好(それ以外の性的な好みの違い)は自己選択だと主張する人々がいますが、これは同性愛の人々が権利獲得の過程で主張した一説に過ぎず、明白な根拠があるわけではありません。最近ではこの区別に対し、同性愛の人々からも批判も上がることも多くなっています。性的嗜好障害(性的嗜好に基づく行為を抑えられず本人がそれを著しく苦痛に感じている場合)の治療とされている方法も、現実には薬物や行動療法で行為に及ぶことを抑えるのみで、性的嗜好自体を変えるわけではないのです。またこれらの性的な好みに気づく原因も、その多くは性表現を見てというものではなく、小児性愛であれば周囲の年下の子どもを好きになった、サディズム(幼少期の場合対象が異性に限定されないことが多い)であれば特撮ヒーローが怪人にやられるのを見たなど、些細なことである場合が多いです。

次に、現実に犯罪を犯すか否かは、理性など他の部分の問題で、性的な好みの問題ではありません。性犯罪の原因が異性愛によるものではないのと同じです。それから性的な好みと現実のジェンダー観は無関係です。サディズムになる原因は異性蔑視や異性嫌悪というわけではないのです。これについては自分の経験を書いた以下の記事をご覧下さい。

http://mtsmush.blog.fc2.com/blog-category-5.html

そして特定の性表現の規制の一番の問題は、特定のセクシュアリティにスティグマを作るということです。性表現の規制が仮に犯罪を増やす可能性としては、よく言われるガス抜きよりもこちらの方がありうると自分は考えています。特定の性表現が規制されると、あたかもその性的な好み自体が問題であるかのような印象が作られます。欧米などでは小児性愛に気づいた青年が、自分がモンスターであると思い悩んだという話がよくあるそうです。こうしたセクシュアリティに対する偏見を内面化することで、「自分は子供と実際に性行為をしたいんだ」と思い込んでしまったり、日々の抑圧によるストレスから何らかの犯罪や自殺に走るということも十分考えられます。

もちろん、小児性愛の場合実写は不可能なのは仕方ありませんが、漫画などのフィクションを規制する場合は、上記のような問題が生ずる可能性も考慮に入れるべきです。

そして最後に、現実では不可能もしくは現実とは乖離した性的な好みは、必ずし世間で「ノーマル」とされる性的な好みより危険とは限らないのです。なぜなら、こうした人々には、現実では比較的恋愛や性に対する欲求に乏しかったり、場合によってはノンセクシャルやアセクシャルを自認している場合もあるからです。以前ゲームや映画などの物理ダメージに興奮する人々は比較的ノンセク傾向が強いという話をしましたが、性的サディズムについて、海外では kinky-asexual やasexual-kink (kinkは性的嗜好扱いのセクシャリティとりわけBDSMを指す)という風に、サドマゾ行為に関心がある代わりに性行為に関心がないという人を表す用語さえあるのです。現実の恋愛や性行為にも数多くの危険や問題があるのは、始めに述べた通りですから、現実と乖離したフィクション好む人々を、現実の恋愛や性行為と親和性の高い性的な好みに変える必要はないのです。

そして何より、現実では不可能な性的な好みを持つ人々が偏見にさらされたり、実際に犯罪に走ってしまうのは、前述の現実の恋愛・セックス至上主義にあるのではないでしょうか。フィクションの性行為を現実に合わせようと主張されるのも、結局は性の充足を現実で行うのが当然という価値観に根ざしたものに他ならないのです。


4.最後に


私は表現の批判自体を悪く言いたいわけではありません。凌辱ものやサディズム、ロリと言った性的な好み単位で悪いものとすることには反対でも、広告の手法、コミュニティの雰囲気などについては、これはどうなんだと思うようなものは、自分にとってもあるからです。加えて、性的なメディアに正しい性知識を伝えるパンフレットを同梱するなどフィクションをよりよくしていく方法もあります。

ただ、私が言いたいのは、性のあり方は人により様々であり、マジョリティであること及び種の存続の必要性故に決して批判されることのない「現実の異性との恋愛を経た性器挿入」は必ずしも他の性のあり方より安全でジェンダー平等に即したものとは限らないということです。

なお私は決してセックスレスを推奨しているわけではありません。あくまで現実の恋愛や性行為を性に関する最終目標と考えることや、他者に対する尊重や人間性と結びつける風潮に疑問を呈しているにとどまります。

テーマ:表現規制問題 - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/02/25(水) 23:08:04|
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正しいポリティカル・コレクトネスのあり方

少し前に、人工知能学会の表紙絵のアンドロイドのイラストが、性的な役割分担にもとづいているという批判があり、表現規制クラスタでも意見が割れたので、このテーマを取り上げます。

このように、ステロタイプな表現を、現在の政治上正しいとされているように改めることをポリティカル・コレクトネスと言います。

これは時として、「言論弾圧に繋がるのではないか。」「風紀統制に繋がるのではないか。」といった批判を受けるものです。しかし、表現規制全般に反対している私から見ても、ポリティカル・コレクトネス自体は、もしそれが正しく行われるのであれば、十分に価値のあるものだと考えます。また公権力やそれと同視できる存在による規制でない以上、表現を批判する表現も、それを更に批判する表現も、表現の自由であり、守られなくてはいけません。


1.表現の割合の問題

ポリティカル・コレクトネスに対する批判として、真っ先に挙がるのが、ポリティカル・コレクトネスは多様性をかえって否定してしまうというものです。上記の例でいうと「男性が働き、女性が家事をする生き方を認めないのか」というもの。
しかし、批判する側は、「ポリティカル・コレクトネスに反する描写の割合が多い」と感じているのです。たとえば、ゲームにおいても、とりわけ子ども向けのものには、「男性主人公」が「悪役」から「女性」を救うという構図の割合が、「多い」のです。これは、2人の男性が女性を奪い合う、つまりスポーツに例えると男性2人がプレイヤーであるのに対し、女性はボールであるという批判を受けます。


2.ポリティカル・コレクトネスが誤解を受ける理由

ポリティカル・コレクトネスを推進する人々にも、色々な立場があるのです。ポリティカル・コレクトネスを推進する人々の中には、そういう表現を「差別」「人権侵害」として「根絶やし」にしようとする人がいるのは事実です。また、性表現などの場合は、法律を用いて「取り締まろう」とする人までいます。
しかし一方では、単にステロタイプな表現を「ステロタイプでない表現と同じぐらいに抑えよう」と考える人や、逆に「そうでない表現を増やそう」と考える人もいるのです。「公共性の高い場所と娯楽を分けよう」や「現実とは違うものだという認識が広まればそれでいい」という人もいて、性表現の規制に反対している人であっても、人工知能学会の表紙絵の批判に賛同している人がいるのです。
つまり、ポリティカル・コレクトネスが怖がれる理由は、皆が前者のようなスタンスだというイメージが強いからです。あと、「言い換え」系の中には、くだらないと感じるものがあるのも一因かもしれません。


3.ポリティカル・コレクトな表現はつまらない?

でも、ポリティカル・コレクトネス表現を推進する人の、政治的に正しい表現ってつまらない。そう思う人も多いでしょう。私も、正直そう思います。人工知能学会の表紙絵批判に積極的だったスプツニ子さんの寿司ロボットの話は、抑圧される女性対支配する男性みたいな古典的な内容で、とてもつまらないです。ただ、同じつまらない表現なのに、男性主人公が女性を悪役から助けにいくようなものは、大衆受けがするんです。一方で、フェミニズム的な内容は、政治的なものとして受けが悪い。(一般的に流通している女性を優遇・美化する表現と、本物のフェミニストが描くフェミニズム表現とは、かなり差があります。)


4.積極的ステロタイプと消極的ステロタイプ

いや、それはそういう表現を求めてる人が多い、「思想の自由市場」なんだから不干渉でいい。そう思う人がいるかもしれません。ただ、問題はそれらの表現が本当に積極的になされたものなのかということです。たとえば、男性主人公が女性を悪役から助けにいく作品の多くは、本当にそういう世界観が好きな人が作っているというよりは、単にそういう内容が「無難である」、またはストーリーは重要ではないので「なんとなくそうした」という人が多いと思います。そして、ポリティカル・コレクトネス推進派から批判を受けた場合には、「そういう表現が好きだから守りたい」というより、「表現規制や風紀維持が怖いから反対」という人が多いと思います。つまり、世の中のステロタイプの大半は、「消極的」な理由で行われているものなのです。たとえば、マリオなんかは、ステージはしっかり作り込まれていますが、ストーリーはオマケです。(なお、マリオも一応はピーチがプレイアブルや主人公になってます。念のため。)


5.正しいポリティカル・コレクトネスのあり方

思うに、正しいポリティカル・コレクトネスのあり方はステロタイプを「根絶やしにする」ことではなく、「一つの選択肢にとどめる」「ポリティカル・コレクトな表現と近い割合にする」もしくは「ステロタイプに過ぎないということを広める」ことにあると思います。したがって、一つのステロタイプな表現が話題になると、それを集団で集中的に攻撃するというやり方は、誤りなのです。ステロタイプな表現をしている人の中には、「なんとなく」「万人ウケしそうだから」という消極的な理由でしている人が山ほどいて、そういう人たちは、ポリティカル・コレクトネスが表現規制や風紀統制をせず、単に批判や交渉であると分かれば、受け入れてくれる可能性もあるのです。つまり一つのもの(今回の件で言えば人工知能学会の表紙絵)を集中的に攻撃するのではなく、数あるステロタイプな表現にまんべんなく「ポリティカル・コレクトネスを意識してもいいんじゃないか」レベルの意見を送ったならば、そのうちいくつかは賛同する人が出るかもしれません。つまり、平和的ポリティカル・コレクトネスが実現する可能性もあるのです。もちろん、ポリティカル・コレクトネスを表現規制に転換することには反対という意思を明確にした上で。
私は、表現を「半ば強制的に」「根絶やし」にするのでなければ、ポリティカル・コレクトネス自体は悪いものではないと思います。ただ、今回の人工知能学会の表紙絵に対する批判は、人工知能学会に集中して行われた上に、「差別」のようないかにも表現自体がNGであるかのような強い言葉が使われていたため、間違ったやり方だったと思います。批判が受け入れられない可能性を想定している人も少なかったですし。中には、「こっちは差別されているんだ。何が差別かは自分で考えろ。」みたいな人までいました。何が正しい表現かは人により異なるので、批判する側はその表現が問題である理由を説明しなければならないし、批判が必ずしも受け入れられるわけではありません。「強い女性が男性をなぎ倒す描写を変えろ」という主張が、受け入れられて当然ではないのと同じことです。
また、人工知能学会が明確に反対の意思表示をしている(現在もステロタイプな表現を意図的にしている)以上、もうこの表紙絵にはこだわるべきではないと思います。

6.表現の自由とは相対主義である

表現の自由というのは、そもそも相対主義です。間違った表現や劣悪な表現でも許されるからこそ、表現の自由と言えるのです。裏を返せば、「当たり前の表現だから」批判されないというのもまた誤りなのです。以前PETAという動物愛護団体が、ポケモンブラック/ホワイトというゲームに対し抗議をしたことがありました。批判のやり方はともかく、あの批判自体は馬鹿馬鹿しいものではないと思います。このゲームは人間がポケモンという架空の動物をカプセル状のボールで捕まえて、戦わせるものです。ゲーム中には、プラズマ団というポケモン愛護団体がいて、ポケモンを人間から解放しようとします。しかし、実はポケモンはそれを望んでおらず、ポケモンと人間の絆を守るため、プラズマ団と戦うというお話です。
これは普通のお話に見えますが、これを美談だと言うのであれば、危うい考えだと思う人がいてもおかしくないと私は思います。まず、PETAは動物を人間とほぼ同じに扱うことを主張しています。仮に、貴族が平民をボールで捕まえて戦わせている作品があったとして、それを絆といって美化するのは無理があるでしょう。つまり、ポケモンは批判を受けなくて当然の作品とまでは言えないのです。逆に、動物虐待イラストを実際にすれば悪いことだと分かって楽しむのは良いが、動物飼うことも美談ではない、という考えも成立します。

7.とは言っても...

とはいっても、何がポリティカル・コレクトのかは人により異なります。男女共働きも役割分担も両方あるのがポリティカル・コレクトであると考える人もいれば、男女共働きのみの世界がポリティカル・コレクトだという人、そして男性は仕事女性は家庭こそがポリティカル・コレクトだという人もいます。男性は家庭、女性は仕事という人さえいるでしょう。また、世間でポリティカル・コレクトとされていることが一部の集団のことしか考慮していない場合が多いのも確かです。しかし、多様な価値観があるからこそ、批判すべきものは批判し、その批判が間違いであると思うならば、批判を退けるというプロセスが必要なのです。批判への反論は、現実の主張とは関係のないファンタジーの場合は、「現実とは区別した上で、理想の異性象をフィクションとして描くことは性愛のあり方として保障されるべきだ」とかでも良いのです。

つまりは、大切なのはポリティカル・コレクト(世間で人権とされているものに従う)ことでも、批判に対して表現の自由だからオッケーで済ますことでもなく、自分が自分で正しいと自身を持って説明できる表現をすることです。

また、ポリティカル・コレクトでない表現が「根絶やし」になるのでなければ、こうした批判が新しい表現を生むこともあります。ポケモンの例で言えば、ポケモンを主人公に人間と戦うアナザーストーリーが、子どもでも遊べる普通の作品として作られる可能性もあります。むしろ、現状ではこちらの方が子ども向け作品としてはタブー感があるのではないでしょうか。また、ステロタイプにもポリティカル・コレクトネスにも属さない、第三極の表現が生まれることもあるのです。もちろん、安易にポリティカル・コレクトネスを受け入れることが、それを人権侵害と認めたことにされてしまい、表現規制を正当化する危険性もあるのは確かです。しかし、作品を作る際に、そういうものを自分の意思で積極的に意識することは悪いことではありません。「真面目ウゼー、表現の自由カッコイイ」みたいなのは、正直つまらない表現だと思います。


余談:オタクは保守趣味と考える一部のジェンダー関係の方へ

ジェンダー系の人の一部には、オタク文化を、キャラクターの性的な魅力に重点を置くものが多いという一点を理由に嫌う人がいます。ただ、オタク文化には、女性キャラクターが男性の役割とされる職業に等しく存在していたり、最近ではそういう分野に女性しかいない作品さえも多くなっているのです。
一方で、洋画やドラマはもちろん、私から見ればジェンダー論の世界にも、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきというステロタイプが大いにあると思います。
従順で保守的なキャラがオタク受けするというのは誤解です。多様なキャラがいるので、快く思わないキャラクターを見たときに、それが印象に残るという面が大きいと思います。涼宮ハルヒの憂鬱のハルヒなんか痴漢をでっちあげてパソコンを強奪しますし、とある魔術の禁書目録の御坂美琴は自販機を蹴って缶ジュースを盗みます。二人とも人気もあるキャラクターです。(これらの行為がフェミニズム的に正しいという意味ではなく、あくまで保守的で従順では無いという意味でです。)
あと、フリージングというアニメがあるんですが、これは女性の性的魅力に重点を置く点はジェンダー関係の人は苦手そうですが、女性が前線で戦い、男性が後方から支援するのが一般的な世界を描いています。自分は政治的意図で書かれた男女逆転はあまり好まないんですが、こういう趣味としてのジェンダーフリーというのはかなり好きです。共産趣味というものがありますが、ジェンダー批判というのは、表現規制と連続するイメージのせいで抵抗を感じる人も多いと思いますが、俯瞰的に見ればものすごく面白いんです。むしろ、ネットによくいる冷笑主義的な人にはピッタリだと思います。

余談ですが、フリージングの作者は、私と同じでサディズム傾向があったりもします。やっぱり、前のエントリーで書いたように、S趣向=保守的な女性好きは誤りだと感じますね。もちろん、私は保守的な趣味も一つのあり方として認めるべきだという立場です。

追記:最後に、自分は人工知能学会の表紙をどう考えているかを述べたいと思います。
わたしはこれは(私にとって)正しい表現だと思います。
人工知能学会の表紙は単なる性愛ファンタジーではなく公共性の高いものであるものの、舞台は未来であり、そこで掃除をしているのはあくまでロボットです。もしこれがNGになると、ロボットのデザインは政治的に正しいものでなくてはならないという考えを正当化してしまうと思います。私は保守的な異性が好みの人が、現実の異性とは区別した上で、保守的な異性をイメージしたロボットを持つのは正しい未来の形だと考えています。
もちろん、人工知能学会の側が絵をそ解釈していたかは微妙ですが。

  1. 2014/07/13(日) 01:58:55|
  2. 表現規制問題
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同人誌即売会用の作品で、印刷所に年齢表記を断られた場合

昨年、コミケ出典用の作品で、キャラクターの年齢表記(17歳)をしたところ、印刷所がコミケは年齢表記を自主規制していると勘違いしたケースが発生しているので、対処法を。

去年の事案について
http://togetter.com/li/351274
一応印刷はするものの、コミケに注意されると言われたそうです。しかし、ベテランの方が架空のキャラの年齢の自粛はないと否定されています。

同人誌即売会連絡会は以下のような、声明を出しています。
「「児童ポルノ法」は実在する18歳未満の児童(男女を問わず)を対象としたものであり、架空のキャラクターによるマンガ、アニメ、ゲーム、小説等は、現状では「児童ポルノ法」の規制対象になっていません。このため、これらメディアにおける18歳未満の架空キャラクターを用いたエロティシズム、バイオレンス表現は罪を問われることはありません。」
http://sokubaikairenrakukai.com/news070100.html
ただ、実在する18歳未満については絵でもNGです。

去年のケースは印刷所が即売会のスタンスを勘違いしていたものなので、声明や配布される(昨年のまとめにもある)コミケットアピールを見せると効果的です。

そして印刷業組合の声明にも架空のキャラクターが対象でないとあります。
http://www.doujin.gr.jp/foradult.html

それから、年齢表記が萎縮してしまう原因には、実在の者に限られることが条文上不明確(判例は明確になっているとしている。)という理由があると思うので、法解釈も見せると効果的です。
ちなみに以下のリンクは、ある団体が美術展に対し「児童ポルノだ」と苦情を入れた際に、実務家の方が解説したもの。
http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/touch/20130205
実年齢、見た目年齢の区別ではなく、実在するかしないかの区別です。

まずは即売会の声明やコミケットアピールを見せたり、印刷して送るなりするといいでしょう。

あと、オマケ
わいせつに関する山口弁護士の解説
「シチュエーションや登場するキャラクターの年齢設定などは一切関係ありません」
http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/cat21944642/index.html

なぜこのような記事を書いたかと言うと、年齢自粛をした作品を見過ぎたせいで、自分がゲームを作る際に不安になってしまい、詳しい解釈を調べる羽目になったからです。
(年齢表記しなかった場合、自分のゲームを見た人がまた同じような誤解をしてしまう可能性があるかもしれないという不安もありました。)
個人的には、業界の規制で年齢関係の規制をしなければならない場合も、年齢関係の規制は業界の自粛によるものという注釈を入れることを勧めていたりします。(業界が注釈もNGと言う場合は別ですが)

リプライを送って下さった方にも、数年前に印刷所に年齢表記の修正を求められたものの、萎縮してはならないと念を押し、印刷してもらった方がいましたが、コミケでは問題なく販売できたそうです。

今年の話では、業者の自粛があるDLsiteなどで販売するものには小学生表記に伏字を入れる一方、即売会には年齢関係の規制のない別バージョンを出展している方もいました。

また、一部の印刷所が小学生表記やランドセルなどを自粛している場合があり、それをコミケの基準だと思い込んでしまう作家さんもいるとの話。

これは流石に知っている方も多いでしょうが、都条例はあくまで18禁にできるだけなので、もともと18禁の作品は関係ありません。都条例の新基準は近親相姦と性犯罪全般なので、強姦や強制わいせつなど年齢以外の要素も含みますし、基準を満たしても知事に指定されるまで法的拘束力はありません。

それから、タイバニ同人誌などで商標権について誤解があった場合は、「指定商品・指定役務で使用しなければ侵害とならないこと」「指定商品・指定役務で使用しても、それが自他商品識別機能・出所表示機能を有さなければ侵害とならないこと(商標的使用否定の法理)」を知っているか確認してみましょう。商標権の侵害となるのは、それが書籍など類似商品の商標であり、同人誌がその商標権者のものであるという表示になるような使い方をした場合のみです。
  1. 2013/07/13(土) 17:07:54|
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CGの摘発に関して

写真をもとにCGを作成したことで、児童買春防止法(児童ポルノ禁止法)で逮捕されたとのニュースがありますが、あくまで実在の人物を模写したからです。

あの法律、「児童」が実在の者に限るというだけで、絵やCGは「その他の物」に入ります。

条文
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO052.html

即売会連絡会の声明
http://sokubaikairenrakukai.com/news070100.html

法解釈(児童は実在の者とした判例)
http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/touch/20130205

報道
http://sankei.jp.msn.com/smp/affairs/news/130711/crm13071113120003-s.htm
「昭和57年~平成5年に出版の9~14歳ぐらいの少女の写真をスキャナー取込し、髪形や姿勢を一部変え、顔などは少女とよく似るように色づけしてCG作成」「実在の少女の裸を基にしたものであれば少女の権利を侵害するため、今後も取り締まっていく」

奥村弁護士によるとトレスではなく写真を模写して一から描いたものだそうですが、実物を見た人によれば、少女は有名な写真集のモデルだった上に、CGも写真と殆ど違わないもので、これは流石に駄目だろと前から言われていたとか。

あと、児童ポルノに関して表現規制反対派があまりしらないことに、「子どもポルノ」という法律用語が既に存在するということがあります。これは奈良、栃木の条例で所持が規制されている13歳未満の実在する者のポルノのことで、日ユニの造語とは異なり、架空のキャラクターを描写したものは含まれません。

児ポ関係は奥村弁護士のサイトを参考にすれば、基本的に間違いありません。

栃木

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/touch/searchdiary?word=*%5B%BB%F9%C6%B8%A5%DD%A5%EB%A5%CE%A1%A6%BB%F9%C6%B8%C7%E3%BD%D5%5D&of=10

「また、本条例で規制する子どもポルノについては、児童ポルノ法と同様に、実在する子どもの姿態を描写したものに限定し、アニメやゲーム等の実在しない架空の児童を描写したものについては、規制の対象に含まないものとします。」


奈良
http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20120925

「また、子どもの姿態は、実在する子どもに係るものに限られ、絵画、アニメ、コミック等に描写された想像上の子どもに係るものは、「子どもポルノ」に該当しない。」

つまり、「子どもポルノ」には架空のキャラクターの絵や漫画、CGは含まれないのです!!
  1. 2013/07/11(木) 21:02:13|
  2. 表現規制問題
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