とりあえず作ってみた(仮)

ユカの冒険というフリゲRPGを製作中です。RPGなのにキーアイテムを集めて扉を開くという、マリオの3Dゲームみたいなシステムです。あと敵が逐一変な挙動をする。@matsmomushiで表現規制関係のツイッターもやってます。変な音楽集も。

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性的指好と現実のジェンダー観は一致しないということ その2

前回 のつづきです

自分はメディア規制について興味を持ったのもこのころだったと思います。ニンテンドードリームというゲーム雑誌のゲームの暴力表現などに関するレイティング(年齢区分)に関する記事を読んで、学校の作文にそれに関することを書いたりもしていました。
小学校6年になると学校で性的な言葉が流行りだしました。私がオナニーという言葉を知ったのは、そのとき性的な言葉に詳しいクラスメイトから聞いたのが最初です。最初は「一人でセックスのごっこすること」だと聞いたので、自分のそれがそれと同じものであるとは思っていませんでした。

小林薫の奈良市小1女児殺害事件があったのも、私が小学校6年のときです。私はこのブログに小児性愛のことについて度々書いていましたが、私はこの時から小児性愛自体を犯罪の原因であるかのように扱う報道に疑問を感じていました。とはいっても、自分の妄想が性的なものだと気づく前のことなので、それとは関係ありません。単に「確かに子どもと性行為をすると犯罪だけど、モテない人が犯罪をするわけではない」と思ったのが始まりです。児童ポルノという言葉も報道で聞き、その時から絵は犯罪にすべきでないとも思っていました。ただ、当時は児童ポルノに絵が含まれるのかどうかは知らなかったので、含まれるとしたら間違いだと思っていたにすぎません。なお、自分の性対象はあくまで大人の女性なので、自分が小児性愛者というわけではありません。

中学に入ってからは、友達と性的なことについて話す機会も多くなり、自分のしていたことが自慰であるということも知りました。一方で、自分は性について語ることに積極的だったかと言えば、そうではありません。性的な冗談を言うことには積極的だったのですが、友達がみんなで性的な本やビデオていると、自分は意地でも見ないという感じでした。自分は今とは対照的に、性的なことについて真面目に語ることはおろか、性的なメディアに感心を寄せることにも周囲の人々より消極的でした。しかし、私が性的なメディアを全く見なかったかと言うとそうではなく、ゲームや映画で女性のキャラクターが攻撃を受けるシーンなど、本来性的なものではないメディアで、性的な欲求を発散させていました。自分に、自分はそれ目的で映画を観たり、ゲームをしているのではないと言い聞かせながら。それぐらい当時の自分には性というものに抵抗があったのです。ただ、途中からはそういう指好の人々の為に作られた、やや過激なゲームもやるようになりました。とはいっても、女性側が主人公のアクションゲームで、敵が残酷な攻撃をしてくるというものです。世間一般でいう性的な攻撃はありません。しかし、それでも成人向け雑誌やアダルトビデオのような純粋に性的なメディアを見ることには抵抗がありました。

高校に入ってからは、クラスの友達は冗談でも性的な話をしないような子ばかりでした。一方、部活の友達は現実の恋愛やセックス、アダルトメディアの話をおおっぴらにする子が大半でした。ただ、自分そういった話には真面目に加わることはありませんでした。

しかし、高校2年の時に、児童ポルノに絵や漫画を含めるか否かを検討するというニュースがあり、そのことには多いに感心がありました。小学校のときから、年少者を性の対象とする指好それ自体を悪く言うのは誤りだと考えていたからです。そのときだけは、ネットで性に関する色々真面目な話をしたりすることはありました。

ちなみに、自分か初めて普通のアダルトメディアに触れたのは、高校三年生の時です。部活の合宿の時に、友達にサイトを教えてもらったのが最初でした。それ以来性的なものとされるメディア(アダルトビデオや漫画、個人制作のゲーム)も見るようになりました。一方で、過度に猟奇的なものへの興味は薄くなりました。ただ、自分はいわゆる和姦のものについては全く感心がないみたいです。レイプ物ばかり入れてるのを友達に見られたら変に思われるのではないかと思い、いくつか和姦ものを携帯に保存したこともあるのですが、結局は関心が沸かず、殆ど見ることはありませんでした。

現実のジェンダーについて、中学時代のことで覚えているのは、女性の記者が宮崎県の東国原知事の宿舎に泊まって取材をしたときに、知事が女性を宿舎に泊めることが問題であるかのように報じられたことがあります。単に取材をしただけなのに、女性というだけで問題にするのはおかしいと思ったのです。自分は、男女が一緒に何かをすることを、なんでもセックスに結びつけるのが嫌いでした。

私の現実のジェンダー観は、高校の時に少し変わりました。というのも、男性に対する差別があると感じたからです。当時父子家庭には手当てがなかったことや、アファーマティブアクションの話を聞いて、それはおかしんじゃないかと不満に思ったのです。自分は男女の平等こそ大切だと考えていたので。当時、自分はいわゆる男性差別反対派でした。なお、今はジェンダーに関しては俯瞰的に考えていて、女性専用車にも賛成ですし、アファーマティブアクションも主夫の援助もしっかり行うなら賛成という立場です。男性が不利なケースに男性も可能な限り救われる仕組みであれば、女性に向けた保護政策も仕方ないかと。ただ、自分がフェミニズムに好意的な印象を持っているかといえば、そうではありません。理由は、自分の性的指好が一部のフェミニズムから批判されていたということもなくはないのですが、それ以上に近年のフェミニズムは男性と女性はこうあるべきということを主張していたり、男性と女性をそれぞれのチームであるかのように捉えていたりするように感じるからです。

私の性を「性的指好」「異性の好み」「現実のジェンダーに対する考え」と分けると、次のようになります。

まず「性的指好」は異性、とりわけ凛とした強い女性が意に反した性行為を強制されたり、サディスティックな行為を受けたりするフィクションに向いています。イメージの視点は比較的フレキシブルですが、圧倒的に女性(陵辱される側)が多いです。最後は女性が勝つ方がどちらかというと好きです。また、女性が快楽を味わって堕落するような非現実的な内容より、苦痛として描かれている方が良いです。

一方「異性の好み」は女性に対する脅威に負けないような、強い女の人に向いています。昔は凛々しい感じの女性が好きだったのですが、当時は強い女性は男性受けが悪いと思っていて、そういう部分も自分が惹かれる点でした。ただ、凛とした強い女性像がメディアなどで割と求められる存在であると知ってからは、優しくて、親しみやすい強い女性の方が好みです。正確には、異性として好みというだけでなく、自分がもし女性に生まれるなら、そういう人になりたいという理想だったりもします。また、世間一般で言う恋人になるよりは、強い友情を築きたいという欲求が強いです。

最後に「現実のジェンダー観」ですが、男女とも性別に囚われずに自由に生きれるのが良いと思っています。平等政策については、女性が不利な点も男性が不利な点も両方改善すべきという立場です。ただ、場合によっては女性を弱者として保護するのも仕方ないかなと。最近女性の権利を主張する人は、むしろ女性が弱者であることを主張する人が増えているように思いますし。ただ、元々は女性の保護を想定して作られた制度であっても、可能な限り男女両方の保護を可能にすべきだと考えています。たとえば、DVならば男性もDVを気軽に相談できるように、男性に対する暴力もDVだということを啓発するなど。

もちろん、私と同じ性的指好を持つ人々には、私の同じように強い女性が最後は勝つパターンが好きな人もいれば、負けるパターンが好きな人もいますし、弱い女性のそれが好きな人もいます。また男性がやられるのが好きな女性、女性がやられるのが好きな女性、男性がやられるのが好きな男性など、本人や性の対象も多種多様です。そして私も、強い女性が負けるものや、弱い女性がやられるのも好きな方です。

だから、私の性的指好が強い女性に対する憧れであるなどと主張することはしません。強い女性に憧れるのも、フェミニズム的には抑圧になるので政治的に正しくないと考える人もいることも承知です。しかし、私の性的指好は一部の人々が主張するような支配欲に基づくものでは決してありません。異性のキャラクターに対する性的な侮辱も、現実の異性に対しそのような意識を持っているのではなく、あくまでその異性のキャラクター個人が侮辱という過酷な状況に置かれることに意味があるのです。表現者の意図に何の意味があるのかと思うかもしれませんが、そういう表現を享受する人々も、同じ受け取り方をするというのは重要だと思います。

自分はツイッターをしているのですが、フェミニストで性表現を好んでおられる方はもちろん、フェミニストで広義の小児性愛者の方や、女性で男性がサディスティックな行為を受けるのが好きな方など多様な方がおられます。あと在日コリアンの方で私と同じ指好の方がおられたのですが、その方は異性の好みは保守的な人が好きだそうですが、日本共産党(左派政党)の支持者で、現実の政治思想は左のようです。

確かに、BL好きの方にフェミニストの方が多いということも感じたので、性的指好と思想が全く関係がないと言えるかは微妙なところです。本人たちは、女性が欲求の客体と見られることなく、一方の男性になりきって男性を欲求の客体とみなせることに惹かれるのだと、自己分析しておられました。

しかし、BL好きの人々に反フェミニズム的な考え方の女性も多数いたことや、さきほど話した男性がサディスティックな行為を受けるのが好きな女性が、フェミニストによる男性批判に反論しているなど、現実のジェンダー観と性的な好みとの関係は、あるとしても単純なものではないと思います。私の趣向は少なくとも幼稚園からあったというのもポイントです。
後、BL好きの女性の多くは、イメージの視点が受け側でも責め側でもなく俯瞰という話はよく聞きます。

最後に、もちろん自分は異性の好みについても、性的な好みと同様、政治的に正しいものに変えるべきだとは思いません。保守的な異性が好きなことは変えるべきものでもなければ、変えられるものでもないと思います。理想の異性は理想と割りきって、現実の異性については現実の異性を尊重するという風潮を作って行くべきだと考えています。

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※訂正:思い返してみたところ、自分がダメージ描写に性的欲求を感じるようになったのは、ウルトラマンティガの怪獣ビザーモに、脇役の隊員(男性)が侵食されているシーンでした。ただ、脇役の隊員はいわゆる三枚目の役柄だったので、主人公の隊員(男性)に脳内変換していたというのが正確だと思います。ダイナの隊員と間違えたのは、ダイナが始まってからその隊員で空想していたことが多いため、記憶により残っていたのでしょう。ビザーモの回を見なおしてみたところ、女性の隊員がビザーモに侵食されている場面もあるのですが、特に興味があった記憶はないので、当時は特に女性が良いということは無かったのだと思います。
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  1. 2014/06/29(日) 17:56:52|
  2. いわゆる男女論とか
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性的指好と現実のジェンダー観は一致しないということ その1

今回は、いわゆる「凌辱もの」のポルノや性的サディズムは男尊女卑的な思想に根付いていると主張する方がおられるのですが、これは違うということについてお話ししたいと思います。もちろん、それを踏まえた上で、そういう描写を侮辱と感じる人が一定数いるのを否定するつもりはありません。ただ、こういう表現の是非は「表現の自由」か否かという外形的な側面でしか語られてこなかったので、性的な好みそれ自体について知って欲しいという気持ちが私にはあります。

なお、私が「性的指好」という言葉を使っているのは、「性的指向」と「性的嗜好」という自然科学的な根拠が明白でない区別に反対の立場だからです。

私は、同意に基づかない性行為が描かれている(演じられている)ポルノや、サディスティックな内容のポルノを好む男性で、少なくともポルノに関しては、普通の性行為が描かれているものには全く興味を感じないのです。
しかし、私の現実のジェンダーに関する考え方は、世間一般からみて保守的なものではありません。もちろん私の考え方に関して、フェミニストやジェンダー学関係の人からは、まだまだ常識に囚われていると指摘されるかもしれませんが、現在の一般的な男性に比べると保守的ではないように思います。

まず、私が自分の性的指好(いわゆる性的サディズム)に気づいたのは、幼稚園の頃です。当時の私はウルトラマン(ティガもしくはダイナ)に熱中していたのですが、あるとき「もし生身の隊員が怪獣の攻撃を受けたら」と想像して、何か惹かれるものを感じました。隊員を演じていたのは、20代の「男性」です。実際に生身の隊員が攻撃されるのを見たのか、想像から入ったのかは分かりませんが、それが最初でした。その頃から生身の隊員が怪獣の攻撃を受けるシーンを空想して、自慰もしていました。ボロボロになった隊員がトイレに流されるといったような、ハードな内容の妄想もしていたと記憶しています。ただ、当時は子どもですから、それが性的なものとの意識はありませんでした。

一方、現実のジェンダーに関して、私はその頃から、「男はこう女はこう」みたいなのが嫌いでした。私がミルク飲み人形を欲しがったり、雛人形を親にねだったこともあると母から聞いています。また、見た目が女の子っぽかったので、よく母に私の名前をもじって「こう子ちゃん」と呼ばれたりもしたのですが、それが嬉しかったというのも記憶にあります。

私の性的な空想は、その後オリジナルの人物(同じく男性です)に変わりました。ただ、そのオリジナルの人物は自分をモチーフにしたもので、人物がその人物なりきって敵に散々やられた後、最後は敵に勝つというものが大半でした。自分がやられる形での妄想が中心だったのです。そのオリジナルキャラは、水を操って戦うなど技などの設定までありました。自分の妄想は基本寝る前に布団に入ったときにしていたのですが、ストーリーをきちんと組み立た上で、そのキャラがやられるシーンで自慰をするという形でした。
また、小学校からは空想だけでなく、ゲームでやれるシーンを見るためにわざと敵キャラの攻撃をうけたりということもし始めました。特に人間型のキャラ(大乱闘スマッシュブラザーズのリンクやロイ。いずれも男性)が酸の海に落ちたり、ポケモンの攻撃を受けたりするのが好きでした。また、単に攻撃を受けるだけでなく、その攻撃を受けても「耐え、生きている」ことを重要視していました。
(念のため書いておきますが、この時点ではレイプというものは知らないので、やられるというのは、あくまで物理的な攻撃を受けることです。)

一方当時の自分には、強い女性に対する憧れがありました。学校で男子に喧嘩で勝った女の子を見たとき、すごく惹かれたというのと、当時テレビ番組のSASUKEを見ていたのですが、女性の挑戦者を楽しみにしていて、女性の挑戦者がでるとクリアして欲しいと強く思っていたのを覚えています。
また、男女で分かれるということに、自分が強い抵抗を感じていたのも覚えています。学校の調べ学習で自分が男子2人、女子4人のグループにいたときに、一人の女子が男女に分かれようと提案したのですが、それが嫌で3人づつのグループに分かれようとした記憶があります。

私の性の対象が女性に変わったのは、小学校3年生の頃でした。弱いとされる女性が攻撃を受ける方がより過酷だと思ったのが始まりでした。それ以来、私の空想は水を操る男性のオリジナルキャラと新しい女性キャラの二人が並存する形になったのですが、途中から空想の主人公は完全に女性のキャラクターに変わりました。その後私がはしかで入院したときには、一度男性(以前とは全く別のオリジナルキャラ)に戻ったのですが、退院した後はずっと女性だったと記憶しています。
確かに、私が生身の人間や女性のキャラクターのような「脆い」存在が過酷な状況に置かれることに、何かを感じていたのは事実です。しかし、それは、よく言われるような自分より弱い者に対する支配欲とは違うと思います。
まず、その女性キャラは世界で一番強いという設定がありました。自分をモチーフにした水を操るキャラよりも強いです(その二人は仲間なのであまり戦わせることはありませんでした)。矛盾しているように思われるかもしれませんが、女性という「脆い」属性を持ちながらも、個人としては「強い」方が良かったのです。
次に、主人公が女性になってからも、自分の空想は、自分がその女性になりきって敵にやられるという形でした。しかも、最後は女性が勝つことが大半でした。

その頃はまだレイプというものを知らなかったので、物理的な攻撃を受けるばかりでしたが、知ってからは物理的な攻撃とレイプの両方を空想するようになりました。その女性のキャラクターは、性的な暴力を受けても平気という設定だったのですが、当時の私が性的な暴力を軽んじていたかというとそうではありません。むしろ、テレビ番組で女性が被害にあった体験談を聞いて、レイプ女性にとっての何よりの脅威というイメージがあったのです。だから、そのキャラクターには、女性にとっての絶対的な脅威を受けても、屈しないような強い女性になって欲しいと思い、そういう設定を付けたのです。他にも、テレビでDVのニュースを見て、そのキャラクターが夫から暴力を振るわれたが自分の力で対抗したというような設定など、女性が女性であるがゆえに弱い立場に置かれる話を聞くと、そのキャラにアンチテーゼ的な設定を付けていたのを覚えています。自分は男性でありながらそういう話を聞くともどかしさを感じていたのです。なぜかは良く分かりません。

次回  へ続きます


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  1. 2014/06/26(木) 01:52:48|
  2. いわゆる男女論とか
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