とりあえず作ってみた(仮)

ユカの冒険というフリゲRPGを製作中です。RPGなのにキーアイテムを集めて扉を開くという、マリオの3Dゲームみたいなシステムです。あと敵が逐一変な挙動をする。@matsmomushiで表現規制関係のツイッターもやってます。変な音楽集も。

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性表現批判の問題点をジェンダー的な観点からまとめてみた

自分が漫画などフィクションにおける性表現の規制に反対するようになったのは、自分が小学校6年の時に起こった奈良市小1女児殺害事件の報道を見て、小児性愛それ自体を犯罪の原因であるという風に主張する報道に疑問を感じたのが最初というのは、以前の記事に書きました。

今回は、性表現の規制はジェンダー平等には繋がらないという話をしたいと思います。

確かに、サッカー漫画を読んでサッカー選手に憧れる人がいるように、性表現は人の行動に影響を与えないかといわれると、否定はできないと思います。
しかし一方で、性的な欲求というのは人間には先天的に存在しているものです。したがって、性表現を規制した場合に上記のような問題が緩和されたとしても、別の問題が生じる可能性もあるのです。

フェミニストという言葉がでてきますが、フェミニストの中でも性表現の規制に反対するグループと賛成するグループの双方が存在すること、には留意下さい。また、本記事は性表現をそれがそぐわない場面においてゾーニングすることを否定するものではありません。



1.重要なのは現実の恋愛・セックス至上主義からの解放

2.現実の恋愛や性行為は他者への尊重だという人へ

3.フィクションの内容が問題という人へ

4.最後に



1.重要なのは「現実の恋愛・セックス中心主義」からの解放

まず、性表現の規制の主張(もしくは規制の主張とまではいかなくとも、萌えや性表現に対する批判)がなされる場合には、それらの表現の危険な側面ばかりが主張され、現実の恋愛や性行為の危険性についてはまず語られることはありません。フェミニズムやジェンダー学は日頃から現実の異性愛の危険性について散々指摘しているにも関わらず、フィクションの話になると完全にそれが無視されるのです。

性のあり方を、

1.現実の恋愛や性行為に比重を置くライフスタイル
2.フィクションの萌えや性表現に比重を置くライフスタイル

と分けた場合に、本来であれば、1と2に共通する問題、1に顕著な問題、2に顕著な問題、の3つが語られるべきはずです。しかしフィクションよりも現実の恋愛や性行為に比重を置くことは世間で「当然のこと」とされているため、1に顕著な問題については語られることは少ないのです。また、仮に語られた場合であっても、それは現実の恋愛や性行為を重視する人々全体の問題とはみなされないのです。


では、現実の恋愛や性行為の危険性というのは何でしょうか?
性表現などが存在せず、現実の恋愛でしか性愛を得ることができない世界を考えてみましょう。

まずはロマンティック・ラブ・イデオロギーに基づく過酷な性愛獲得競争です。性的な満足を獲得する手段が現実の恋愛やそれを経た性行為しか無いとすると、恋愛や性行為の相手としての異性を求める動きは今よりも強くなるでしょう。そうなれば、常に異性を意識した行動(異性に好まれるとされる行動)をする人々が多くなると考えられます。その行動の多くは、異性が自分の性に求める行動、つまりは女らしさ、男らしさなのです。
加えて、現実の恋愛や性行為がマストになると、パートナーのいない人々は、現実で関わりのある異性、多くはビジネスの同僚や後輩を、恋愛や性行為の対象と見ることになります。異性を単に職場仲間や友達と見ることが難しくなるのです。そのような状況では、日常生活において強引なアプローチなどを受ける機会も多くなるはずです。
加えて、アンペイド・ワークやDV、デートDV、ストーカーなど現実の恋愛にはフェミニストの人々が指摘していた数多くの問題があります。現実の性行為にも、相手に嫌われたくないが故に性行為をしてしまったり、合意が不十分であったり、避妊の問題など、現実の行為であるが故の危険も沢山存在するのです。

にもかかわらず、現実の恋愛や性行為を本質的に無害なものとした上で、フィクションの害悪ばかりが問題にされるのです。フィクションの影響と主張されることの多くも、全ては現実の恋愛や性行為の中において起こっていることなのに。

では、この背景には何があるかというと「現実の恋愛・セックス中心主義」です。これは現実の異性との恋愛を経た性行為こそが最終目標であり、ポルノだとか自慰だとかはその代替に過ぎないという考えです。本当にこれは正しいのでしょうか?
この世界の大半の人は、性行為の回数よりも自慰の回数の方が多いはずです。
現実の性行為で楽しもうとするからこそ、危険な性行為が行われるのではないでしょうか?
異性をむやみに性の対象として見ないで欲しいと言いつつ、性の対象として見てよい異性が現実の自分に関わりのある実在する人物に限定するのは、本当に正しいのでしょうか?
ホモソーシャルを強化しているのは、むしろ現実の恋愛や性行為に重きを置く人々なのではないでしょうか?

ジェンダーに関心のある人々の「一部」が、殊更オタクの人を責めることがありますが、オタクの人々は(少なくともイメージとしては)現実の異性にあまり積極的でないと言われています。自分の経験としても、高校の修学旅行や合宿の夜に男子だけになった際に、現実の異性を性の対象とするような猥談をしていたのは、オタク的でない生徒の方でした。

もちろん、私はオタクの人々が非オタクの人々よりも優れていると言うつもりはありませんし、フィクションでの恋愛や性の充足が現実の恋愛や性行為より優れていると言うつもりもありません。しかし、私が言いたいのは、現実の恋愛や性行為に比重を置くことは、単に世間で当然とされているだけで、フィクションに比重を置くことよりも安全というわけではないということです。

また、オタク批判としてよく取り上げられるネットのミソジニーに関して、女性に恋愛対象として見られないことを理由にミソジニー発言を頻繁にする男性の中には、現実の恋愛・セックス至上主義を内面化している人々が多いと感じます。そういう人々には、現実の恋愛やセックスが必須でないこと、人間の価値を決めるものではないことを伝えていく必要があると私は考えています。一部の人々の「フィクションの異性像は他者を尊重していない。現実の性行為こそが異性の尊重だ。」「童貞だから異性嫌悪発言を繰り返すんだ。」という姿勢は、それこそホモソーシャルにおける現実の恋愛・セックス至上主義や異性獲得競争への加担に他ならないのではないでしょうか?


2.現実の恋愛や性行為は他者への尊重だという人へ

現実の恋愛やセックスは、フィクションの萌えや性表現とは違い、他者への尊重の証であるという人へ。本当にそうでしょうか? 私は現実の恋愛や性行為も、フィクションも、価値としては同じだと思います。
もし恋愛やセックスが愛や尊重だというのであれば、どうして性別により相手を選別するのでしょうか? あなたは性別により尊重の仕方を分けるのですか?
もし恋愛が愛や尊重だというなら、どうして好きな人に別の好きな人が出来たら怒るのでしょうか? その人が本当に好きな人と結ばれて、幸せになることを望まないのでしょうか?
現実での異性との関わりは、恋愛や性行為だけではありません。同性と可能な限り同じような関係を築くこともできるはずです。それだって立派な尊重です。
それでも敢えてロマンティック・セクシャルな関係を選ぶのは、生理的な欲求があるからでしょう。でも、それを奪われる(恋愛や性に基づく関係を禁止される)のは嫌なはずです。

私は性行為はもちろん、恋愛も、単なるフェティシズムの一種に過ぎず、人間関係や他者の尊重とは全く次元を異にするものだと考えています。それを認めなければ、同性にも異性にも恋愛感情を持たない無性愛の人々は人を愛せない人間ということになります。私はその性行為や恋愛というフェティシズムの部分をフィクションの理想的な異性キャラクターで充足し、現実の人間関係と分離してしまうことは、他者を尊重しないことを意味しないと考えます。

3.フィクションの内容が問題という人へ


次に、フィクションの性表現自体は問題無い、その内容(サディズムや年少者との性行為)が問題なんだという人へ。私はフィクションの内容を矯正することは、原則として無意味だと考えています。

まず、性的な好み自体を変える方法は不明です。性的指向(性の対象が異性であるか同性であるか)と違い、性的嗜好(それ以外の性的な好みの違い)は自己選択だと主張する人々がいますが、これは同性愛の人々が権利獲得の過程で主張した一説に過ぎず、明白な根拠があるわけではありません。最近ではこの区別に対し、同性愛の人々からも批判も上がることも多くなっています。性的嗜好障害(性的嗜好に基づく行為を抑えられず本人がそれを著しく苦痛に感じている場合)の治療とされている方法も、現実には薬物や行動療法で行為に及ぶことを抑えるのみで、性的嗜好自体を変えるわけではないのです。またこれらの性的な好みに気づく原因も、その多くは性表現を見てというものではなく、小児性愛であれば周囲の年下の子どもを好きになった、サディズム(幼少期の場合対象が異性に限定されないことが多い)であれば特撮ヒーローが怪人にやられるのを見たなど、些細なことである場合が多いです。

次に、現実に犯罪を犯すか否かは、理性など他の部分の問題で、性的な好みの問題ではありません。性犯罪の原因が異性愛によるものではないのと同じです。それから性的な好みと現実のジェンダー観は無関係です。サディズムになる原因は異性蔑視や異性嫌悪というわけではないのです。これについては自分の経験を書いた以下の記事をご覧下さい。

http://mtsmush.blog.fc2.com/blog-category-5.html

そして特定の性表現の規制の一番の問題は、特定のセクシュアリティにスティグマを作るということです。性表現の規制が仮に犯罪を増やす可能性としては、よく言われるガス抜きよりもこちらの方がありうると自分は考えています。特定の性表現が規制されると、あたかもその性的な好み自体が問題であるかのような印象が作られます。欧米などでは小児性愛に気づいた青年が、自分がモンスターであると思い悩んだという話がよくあるそうです。こうしたセクシュアリティに対する偏見を内面化することで、「自分は子供と実際に性行為をしたいんだ」と思い込んでしまったり、日々の抑圧によるストレスから何らかの犯罪や自殺に走るということも十分考えられます。

もちろん、小児性愛の場合実写は不可能なのは仕方ありませんが、漫画などのフィクションを規制する場合は、上記のような問題が生ずる可能性も考慮に入れるべきです。

そして最後に、現実では不可能もしくは現実とは乖離した性的な好みは、必ずし世間で「ノーマル」とされる性的な好みより危険とは限らないのです。なぜなら、こうした人々には、現実では比較的恋愛や性に対する欲求に乏しかったり、場合によってはノンセクシャルやアセクシャルを自認している場合もあるからです。以前ゲームや映画などの物理ダメージに興奮する人々は比較的ノンセク傾向が強いという話をしましたが、性的サディズムについて、海外では kinky-asexual やasexual-kink (kinkは性的嗜好扱いのセクシャリティとりわけBDSMを指す)という風に、サドマゾ行為に関心がある代わりに性行為に関心がないという人を表す用語さえあるのです。現実の恋愛や性行為にも数多くの危険や問題があるのは、始めに述べた通りですから、現実と乖離したフィクション好む人々を、現実の恋愛や性行為と親和性の高い性的な好みに変える必要はないのです。

そして何より、現実では不可能な性的な好みを持つ人々が偏見にさらされたり、実際に犯罪に走ってしまうのは、前述の現実の恋愛・セックス至上主義にあるのではないでしょうか。フィクションの性行為を現実に合わせようと主張されるのも、結局は性の充足を現実で行うのが当然という価値観に根ざしたものに他ならないのです。


4.最後に


私は表現の批判自体を悪く言いたいわけではありません。凌辱ものやサディズム、ロリと言った性的な好み単位で悪いものとすることには反対でも、広告の手法、コミュニティの雰囲気などについては、これはどうなんだと思うようなものは、自分にとってもあるからです。加えて、性的なメディアに正しい性知識を伝えるパンフレットを同梱するなどフィクションをよりよくしていく方法もあります。

ただ、私が言いたいのは、性のあり方は人により様々であり、マジョリティであること及び種の存続の必要性故に決して批判されることのない「現実の異性との恋愛を経た性器挿入」は必ずしも他の性のあり方より安全でジェンダー平等に即したものとは限らないということです。

なお私は決してセックスレスを推奨しているわけではありません。あくまで現実の恋愛や性行為を性に関する最終目標と考えることや、他者に対する尊重や人間性と結びつける風潮に疑問を呈しているにとどまります。
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テーマ:表現規制問題 - ジャンル:政治・経済

  1. 2015/02/25(水) 23:08:04|
  2. 表現規制問題
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