とりあえず作ってみた(仮)

ユカの冒険というフリゲRPGを製作中です。RPGなのにキーアイテムを集めて扉を開くという、マリオの3Dゲームみたいなシステムです。あと敵が逐一変な挙動をする。@matsmomushiで表現規制関係のツイッターもやってます。変な音楽集も。

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正しいポリティカル・コレクトネスのあり方

少し前に、人工知能学会の表紙絵のアンドロイドのイラストが、性的な役割分担にもとづいているという批判があり、表現規制クラスタでも意見が割れたので、このテーマを取り上げます。

このように、ステロタイプな表現を、現在の政治上正しいとされているように改めることをポリティカル・コレクトネスと言います。

これは時として、「言論弾圧に繋がるのではないか。」「風紀統制に繋がるのではないか。」といった批判を受けるものです。しかし、表現規制全般に反対している私から見ても、ポリティカル・コレクトネス自体は、もしそれが正しく行われるのであれば、十分に価値のあるものだと考えます。また公権力やそれと同視できる存在による規制でない以上、表現を批判する表現も、それを更に批判する表現も、表現の自由であり、守られなくてはいけません。


1.表現の割合の問題

ポリティカル・コレクトネスに対する批判として、真っ先に挙がるのが、ポリティカル・コレクトネスは多様性をかえって否定してしまうというものです。上記の例でいうと「男性が働き、女性が家事をする生き方を認めないのか」というもの。
しかし、批判する側は、「ポリティカル・コレクトネスに反する描写の割合が多い」と感じているのです。たとえば、ゲームにおいても、とりわけ子ども向けのものには、「男性主人公」が「悪役」から「女性」を救うという構図の割合が、「多い」のです。これは、2人の男性が女性を奪い合う、つまりスポーツに例えると男性2人がプレイヤーであるのに対し、女性はボールであるという批判を受けます。


2.ポリティカル・コレクトネスが誤解を受ける理由

ポリティカル・コレクトネスを推進する人々にも、色々な立場があるのです。ポリティカル・コレクトネスを推進する人々の中には、そういう表現を「差別」「人権侵害」として「根絶やし」にしようとする人がいるのは事実です。また、性表現などの場合は、法律を用いて「取り締まろう」とする人までいます。
しかし一方では、単にステロタイプな表現を「ステロタイプでない表現と同じぐらいに抑えよう」と考える人や、逆に「そうでない表現を増やそう」と考える人もいるのです。「公共性の高い場所と娯楽を分けよう」や「現実とは違うものだという認識が広まればそれでいい」という人もいて、性表現の規制に反対している人であっても、人工知能学会の表紙絵の批判に賛同している人がいるのです。
つまり、ポリティカル・コレクトネスが怖がれる理由は、皆が前者のようなスタンスだというイメージが強いからです。あと、「言い換え」系の中には、くだらないと感じるものがあるのも一因かもしれません。


3.ポリティカル・コレクトな表現はつまらない?

でも、ポリティカル・コレクトネス表現を推進する人の、政治的に正しい表現ってつまらない。そう思う人も多いでしょう。私も、正直そう思います。人工知能学会の表紙絵批判に積極的だったスプツニ子さんの寿司ロボットの話は、抑圧される女性対支配する男性みたいな古典的な内容で、とてもつまらないです。ただ、同じつまらない表現なのに、男性主人公が女性を悪役から助けにいくようなものは、大衆受けがするんです。一方で、フェミニズム的な内容は、政治的なものとして受けが悪い。(一般的に流通している女性を優遇・美化する表現と、本物のフェミニストが描くフェミニズム表現とは、かなり差があります。)


4.積極的ステロタイプと消極的ステロタイプ

いや、それはそういう表現を求めてる人が多い、「思想の自由市場」なんだから不干渉でいい。そう思う人がいるかもしれません。ただ、問題はそれらの表現が本当に積極的になされたものなのかということです。たとえば、男性主人公が女性を悪役から助けにいく作品の多くは、本当にそういう世界観が好きな人が作っているというよりは、単にそういう内容が「無難である」、またはストーリーは重要ではないので「なんとなくそうした」という人が多いと思います。そして、ポリティカル・コレクトネス推進派から批判を受けた場合には、「そういう表現が好きだから守りたい」というより、「表現規制や風紀維持が怖いから反対」という人が多いと思います。つまり、世の中のステロタイプの大半は、「消極的」な理由で行われているものなのです。たとえば、マリオなんかは、ステージはしっかり作り込まれていますが、ストーリーはオマケです。(なお、マリオも一応はピーチがプレイアブルや主人公になってます。念のため。)


5.正しいポリティカル・コレクトネスのあり方

思うに、正しいポリティカル・コレクトネスのあり方はステロタイプを「根絶やしにする」ことではなく、「一つの選択肢にとどめる」「ポリティカル・コレクトな表現と近い割合にする」もしくは「ステロタイプに過ぎないということを広める」ことにあると思います。したがって、一つのステロタイプな表現が話題になると、それを集団で集中的に攻撃するというやり方は、誤りなのです。ステロタイプな表現をしている人の中には、「なんとなく」「万人ウケしそうだから」という消極的な理由でしている人が山ほどいて、そういう人たちは、ポリティカル・コレクトネスが表現規制や風紀統制をせず、単に批判や交渉であると分かれば、受け入れてくれる可能性もあるのです。つまり一つのもの(今回の件で言えば人工知能学会の表紙絵)を集中的に攻撃するのではなく、数あるステロタイプな表現にまんべんなく「ポリティカル・コレクトネスを意識してもいいんじゃないか」レベルの意見を送ったならば、そのうちいくつかは賛同する人が出るかもしれません。つまり、平和的ポリティカル・コレクトネスが実現する可能性もあるのです。もちろん、ポリティカル・コレクトネスを表現規制に転換することには反対という意思を明確にした上で。
私は、表現を「半ば強制的に」「根絶やし」にするのでなければ、ポリティカル・コレクトネス自体は悪いものではないと思います。ただ、今回の人工知能学会の表紙絵に対する批判は、人工知能学会に集中して行われた上に、「差別」のようないかにも表現自体がNGであるかのような強い言葉が使われていたため、間違ったやり方だったと思います。批判が受け入れられない可能性を想定している人も少なかったですし。中には、「こっちは差別されているんだ。何が差別かは自分で考えろ。」みたいな人までいました。何が正しい表現かは人により異なるので、批判する側はその表現が問題である理由を説明しなければならないし、批判が必ずしも受け入れられるわけではありません。「強い女性が男性をなぎ倒す描写を変えろ」という主張が、受け入れられて当然ではないのと同じことです。
また、人工知能学会が明確に反対の意思表示をしている(現在もステロタイプな表現を意図的にしている)以上、もうこの表紙絵にはこだわるべきではないと思います。

6.表現の自由とは相対主義である

表現の自由というのは、そもそも相対主義です。間違った表現や劣悪な表現でも許されるからこそ、表現の自由と言えるのです。裏を返せば、「当たり前の表現だから」批判されないというのもまた誤りなのです。以前PETAという動物愛護団体が、ポケモンブラック/ホワイトというゲームに対し抗議をしたことがありました。批判のやり方はともかく、あの批判自体は馬鹿馬鹿しいものではないと思います。このゲームは人間がポケモンという架空の動物をカプセル状のボールで捕まえて、戦わせるものです。ゲーム中には、プラズマ団というポケモン愛護団体がいて、ポケモンを人間から解放しようとします。しかし、実はポケモンはそれを望んでおらず、ポケモンと人間の絆を守るため、プラズマ団と戦うというお話です。
これは普通のお話に見えますが、これを美談だと言うのであれば、危うい考えだと思う人がいてもおかしくないと私は思います。まず、PETAは動物を人間とほぼ同じに扱うことを主張しています。仮に、貴族が平民をボールで捕まえて戦わせている作品があったとして、それを絆といって美化するのは無理があるでしょう。つまり、ポケモンは批判を受けなくて当然の作品とまでは言えないのです。逆に、動物虐待イラストを実際にすれば悪いことだと分かって楽しむのは良いが、動物飼うことも美談ではない、という考えも成立します。

7.とは言っても...

とはいっても、何がポリティカル・コレクトのかは人により異なります。男女共働きも役割分担も両方あるのがポリティカル・コレクトであると考える人もいれば、男女共働きのみの世界がポリティカル・コレクトだという人、そして男性は仕事女性は家庭こそがポリティカル・コレクトだという人もいます。男性は家庭、女性は仕事という人さえいるでしょう。また、世間でポリティカル・コレクトとされていることが一部の集団のことしか考慮していない場合が多いのも確かです。しかし、多様な価値観があるからこそ、批判すべきものは批判し、その批判が間違いであると思うならば、批判を退けるというプロセスが必要なのです。批判への反論は、現実の主張とは関係のないファンタジーの場合は、「現実とは区別した上で、理想の異性象をフィクションとして描くことは性愛のあり方として保障されるべきだ」とかでも良いのです。

つまりは、大切なのはポリティカル・コレクト(世間で人権とされているものに従う)ことでも、批判に対して表現の自由だからオッケーで済ますことでもなく、自分が自分で正しいと自身を持って説明できる表現をすることです。

また、ポリティカル・コレクトでない表現が「根絶やし」になるのでなければ、こうした批判が新しい表現を生むこともあります。ポケモンの例で言えば、ポケモンを主人公に人間と戦うアナザーストーリーが、子どもでも遊べる普通の作品として作られる可能性もあります。むしろ、現状ではこちらの方が子ども向け作品としてはタブー感があるのではないでしょうか。また、ステロタイプにもポリティカル・コレクトネスにも属さない、第三極の表現が生まれることもあるのです。もちろん、安易にポリティカル・コレクトネスを受け入れることが、それを人権侵害と認めたことにされてしまい、表現規制を正当化する危険性もあるのは確かです。しかし、作品を作る際に、そういうものを自分の意思で積極的に意識することは悪いことではありません。「真面目ウゼー、表現の自由カッコイイ」みたいなのは、正直つまらない表現だと思います。


余談:オタクは保守趣味と考える一部のジェンダー関係の方へ

ジェンダー系の人の一部には、オタク文化を、キャラクターの性的な魅力に重点を置くものが多いという一点を理由に嫌う人がいます。ただ、オタク文化には、女性キャラクターが男性の役割とされる職業に等しく存在していたり、最近ではそういう分野に女性しかいない作品さえも多くなっているのです。
一方で、洋画やドラマはもちろん、私から見ればジェンダー論の世界にも、男性はこうあるべき、女性はこうあるべきというステロタイプが大いにあると思います。
従順で保守的なキャラがオタク受けするというのは誤解です。多様なキャラがいるので、快く思わないキャラクターを見たときに、それが印象に残るという面が大きいと思います。涼宮ハルヒの憂鬱のハルヒなんか痴漢をでっちあげてパソコンを強奪しますし、とある魔術の禁書目録の御坂美琴は自販機を蹴って缶ジュースを盗みます。二人とも人気もあるキャラクターです。(これらの行為がフェミニズム的に正しいという意味ではなく、あくまで保守的で従順では無いという意味でです。)
あと、フリージングというアニメがあるんですが、これは女性の性的魅力に重点を置く点はジェンダー関係の人は苦手そうですが、女性が前線で戦い、男性が後方から支援するのが一般的な世界を描いています。自分は政治的意図で書かれた男女逆転はあまり好まないんですが、こういう趣味としてのジェンダーフリーというのはかなり好きです。共産趣味というものがありますが、ジェンダー批判というのは、表現規制と連続するイメージのせいで抵抗を感じる人も多いと思いますが、俯瞰的に見ればものすごく面白いんです。むしろ、ネットによくいる冷笑主義的な人にはピッタリだと思います。

余談ですが、フリージングの作者は、私と同じでサディズム傾向があったりもします。やっぱり、前のエントリーで書いたように、S趣向=保守的な女性好きは誤りだと感じますね。もちろん、私は保守的な趣味も一つのあり方として認めるべきだという立場です。

追記:最後に、自分は人工知能学会の表紙をどう考えているかを述べたいと思います。
わたしはこれは(私にとって)正しい表現だと思います。
人工知能学会の表紙は単なる性愛ファンタジーではなく公共性の高いものであるものの、舞台は未来であり、そこで掃除をしているのはあくまでロボットです。もしこれがNGになると、ロボットのデザインは政治的に正しいものでなくてはならないという考えを正当化してしまうと思います。私は保守的な異性が好みの人が、現実の異性とは区別した上で、保守的な異性をイメージしたロボットを持つのは正しい未来の形だと考えています。
もちろん、人工知能学会の側が絵をそ解釈していたかは微妙ですが。

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  1. 2014/07/13(日) 01:58:55|
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